人はウソを隠すのではなく信じ込む【マシュー・サイド著:失敗の科学より】
こんにちは。
本日の記事は「失敗の科学」続編です。
人はウソを隠すのではなく信じ込む
本書の第二章以降は、人が失敗から学ぶことの難しさについて述べられていました。その難しさとは人間の本能的な思い込みや自分を守ろうとする性質であるというのです。
例としてあるカルト信者が挙げられていました。
そのカルト信者は「世界が滅亡する」という予言をした教祖を心の底から信奉していました。しかし注目すべきはその予言が外れたときの信者の行動です。
信者は予言を外した教祖に対して幻滅する様子など一切なく、むしろ熱心な信者になるものもいたそうです。「私たちが世界を救ったのだ」「神は第二のチャンスをくれたのだ」など、歓喜に酔いしれる信者が大勢だったというのです。
これらの信者のふるまいはあからさまな失敗の再定義と呼ぶことができます。
多くの人の場合、人は自分の信念と相反する事実を突きつけられると自分の過ちを認めるよりも事実の解釈を変えてしまう傾向があります。
私もそういった経験がありますが、やはり言い訳をして自分を正当化してしまいたくなりますよね。
本書ではこの状態を認知的不協和と呼んでおり、自分の信念と事実が矛盾している状態、あるいはその矛盾によって生じる不快感やストレス状態としています。
この認知的不協和の解決策は
①信念が間違っていたと認める
②否定。事実を受け入れず、自分の都合の良いように解釈し、あるいは完全に無視し忘れたりする
の2パターンがあります。
カルト集団の信者の例で言えば、「自分が詐欺師を教祖と崇めていた」と認めることが苦痛で、失敗を成功と思い込むしかなかったということでしょう。
努力が判断を鈍らせる
この認知的不協和は社会の多くの場面で見られます。
例えば大多数の検察官は自分のやっていることは単なる仕事ではなく使命と捉えている節がある。この点はむしろ良いことであると言えるが、問題はこの使命感が長い受験勉強を経た司法試験の合格、そして何年も実務経験を積んだという加入儀式から来ていることである。
計り知れない努力の末手に入れた職務の中で、無実の人を刑務所を送りにしてしまうことが起こり得るのは耐えがたい認知的不協和であると言えますね。
こういったことが起きないためにもより客観的な判断をし、常日頃からバイアスがあることを認知しながら行動していきたいですね。
後半は心理学の観点も織り交ぜた、事例をもとに失敗へのマネジメントを学ぶことができました。